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電通とリクルート (新潮新書)
電通とリクルート (新潮新書)

この本は、今まで自分の頭の中でモヤモヤとしていたことを、体系的にスパッと切り分けてもらったような気持ちよさがありました。

マス広告によって「意味の書き換え」を行う電通は「発散志向広告」であり、広告を集めたメディアによって消費行動へのガイドを行うリクルートは「収束志向広告」であるとして対立軸を持たせつつ、それを消費社会の変遷と照らし合わせて解く。意味の書き換えとは、新幹線を「恋人たちを結ぶ列車」にしたクリスマス・エクスプレスの広告に代表されるような、スペック勝負ではない世界のこと。リクルートが行ったのは物件スペックなどのバラバラな情報の企画の統一と検索性向上。電通は夢・ニュース・ストーリーを創り、リクルートはリアル・合理性を提供した。リクルートが提供していたのは、「使うもの」としてのメディア。戦後、大衆はやがて分衆・小衆になり、インターネットの登場もあり自分の行動を自分で決めるようになった。ちなみに、これを読んで今さらながらリクルートのかたがGoogleを競合視する理由に気付きました。

さて。ネット広告に話を移します。(本書の内容とはズレます。)

ネット広告の世界では広告主がブランディングかダイレクトレスポンスかのような二軸で議論されることが多いと思いますが、ここではちょっと違ってメディアの区分を。広告枠として強いメディアとオーディエンスデータとして強いメディアは比例しません。昨今オーディエンスターゲティングがブームになっていますが、本当に重要なのは、リクルートのようなガイドを行うメディアのオーディエンスデータ。この記事ではファンクションサイトと呼んでいましたが。そして、配信先はそれ以外のメディアで。「どういうデータが売れますか?」としばしば聞かれるのですが、「比較サイト・検索サイト・情報サイトなどのオーディエンスのインテントが浮かび上がる行動」と答えていますが、より正確に言えばガイドメディアかもしれません。今後ガイドメディアは、情報が整理されたコンテンツによるガイドだけではなく、オーディエンスデータによってサイトを離れた後にも生活者をガイドすることになるはずです。その世界では「オーディエンスデータの販売」は死語になっているはずです。

そして、この文章がすごくはまった。

 情報と人々の関係は、雨と陸地の関係に似ている。かつては、土が雨を吸収するように、人々は情報を得てそれをまた糧としていた。そして、大地が潤うように豊かになっていった。それは八〇年代に「消費社会」という森になった。
 今の風景は、まったく異なる。人々はコンクリートの地面のように情報をはじいている。常に豪雨が続いているような状況では、情報に押し流されてしまうからだ。ほとんどの情報が下水道に流される一方で、お望みの水路から自分の蛇口へとつないでくれるグーグルのような存在が重宝される。

これもネット広告に置き換えてみると。RTBの世界というのは、ひとりひとりのオーディエンスに対して蛇口が開通することを意味しています。(RTBに対する誤解が蔓延しているので、今後しっかり書きたい。)オーディエンスターゲティングはあくまでも土管であり、云わば"コミュニケーション・インフラ"。どこでもドアです。ボクはどこでもドアを開通させるお仕事をしています。それがテクノロジー企業です。ただし、どこでもドアが開発されても、しずかちゃんがシャワー中に入っていってしまっては元も子もないのです。

ということで、蛇口を通してどんな情報を提供するのかが問題です。私はバナーのクリエイティブは(課金形態にもよるが)CTRの高いものが良いと思っており、バナー内の情報がどうあれ構わないと思っています。問題は、クリックしたその先にあって、サービスサイトなのかキャンペーンページなのか、またはFacebookなどのファンページなのかはわからないけれど、広告会社はサイトに近い方向を担当し、テクノロジー企業はコミュニケーション・インフラを極めるという分業像を、個人的には描いています。広告会社はテクノロジーを作るのではなく使いこなすとも言えますが。キーワード〜やメディア〜よりもサイト上でどのオーディエンスにどんなメッセージを発信し続けるのか。そして、オーディエンスのサイト内外での行動データを解析し、リサーチだけでなく柔らかなCRMを。考えるだけで楽しい。

久しぶりにブログ書いたら、まったくまとまらない。

ちなみに、商学部の授業では本書のようなことをやっています。商学部、like